ラーコツィ独立戦争

18世紀ハンガリーのラーコツィ独立戦争についてのメモを淡々と更新するもの。

ラーコーツィ・フェレンツ2世

ラーコーツィ・フェレンツ2世1676年  - 1735年)ハンガリーの大貴族で、反ハプスブルク独立戦争の指導者。 

 

1676年、トランシルヴァニア公の称号を持つラーコーツィ・フェレンツ1世と、クロアチア太守ペータル・ズリンスキの娘で、勇将ニコラ・ズリンスキの姪にあたるズリーニ・イロナ(イェレナ)との間に3番目の子供として生まれた。ラーコーツィ家は父のみならず、高祖父ラーコーツィ・ジグモンドを始め曾祖父のラーコーツィ・ジェルジ1世、祖父のラーコーツィ・ジェルジ2世トランシルヴァニア公に選ばれた名門の家柄だった。しかし、祖父は失政からオスマン帝国の介入を招き戦死、父は公位を継げなかった上、1670年ハプスブルク家に対するヴェッシェレーニ陰謀に関与したため立場は良くなかった。

 

1682年に母はハンガリーの大貴族テケリ・イムレと再婚した。テケリはフランス、オスマン帝国の支援の下、ハプスブルク帝国に対する大規模な反乱の指導者となったが、1683年第二次ウィーン包囲オスマン帝国ハプスブルク軍に敗退すると、帝国と共に劣勢になり没落、亡命した。

 

1686年、皇帝軍の司令官の1人アントニオ・カラファ将軍はムンカーチ城を包囲した。イロナは3年間城を守ったが、1689年に降伏した。ラーコーツィと姉ユリアナは再び皇帝レオポルト1世の後見下におかれ、母親と共にウィーンに連れてこられた。一家は財産を取り戻すことが出来たが、皇帝の許可なしにはウィーンを離れることは禁じられた。

 

1699年、カルロヴィッツ条約が結ばれると同時に、テケリと母は亡命を余儀なくされた。ラーコーツィは皇帝の監督下におかれウィーンに残った。広範な反ハプスブルク感情を頼みとして、テケリの率いていた農民軍の残党はトカイ=ヘジャリャ地方(現在のハンガリー北東部、ラーコーツィ家の所領の一部)で反乱を起こした。反乱軍はトカイシャーロシュパタクシャートラリャウージヘイのラーコーツィの持ち城を占拠し、ラーコーツィに指導者となってくれるよう頼んだが、ラーコーツィは小規模な農民一揆と大差ない反乱の首謀者にされるのを嫌がり、ウィーンに戻って反乱との関わり否定し、身の潔白を証明した。

 

やがてラーコーツィは自分の所領の隣合うウングヴァール(現在のウクライナウージュホロド)を所有するミクローシュ・ベルチェーニ伯爵と友人になった。ベルチェーニはハンガリー王国で3番目に裕福な貴族で、非常に高い教養を積んだ人物であった。ベルチェーニはハプスブルク絶対主義に支配されつつあるハンガリーを憂えており、上級貴族を中心としたハンガリーの政治主権の回復を望んでいた。ラーコーツィはベルチェーニの考えに感化され、ハンガリー独立のために戦ってきた一族の伝統を受け継ぐべきだと思うようになった。

 

フランスはラーコーツィと協定を結び、彼がハンガリー独立の大義のために戦いを始める暁には支援を行うと約束した。しかし、オーストリア密偵は両者の交わした通信文を押さえると皇帝に注進、この協定のためラーコーツィは1700年4月18日に逮捕され、ヴィーナー・ノイシュタットの要塞に収監された。身重の妻アマーリエと要塞の司令官の手引きでラーコーツィは脱獄、ポーランドへの逃亡に成功した。この地でラーコーツィはベルチェーニと再会し、両者はフランス宮廷との協定を再発効させた。

スペイン継承戦争が勃発し、ハンガリー王国内に駐留していたオーストリア軍の大部分が同国を離れると、かつてテケリが率いていたクルツ反乱軍はムンカーチで新たな蜂起を再開し、ラーコーツィはその指導者に推された。ラーコーツィはこの独立戦争に身を投じることを決意し、申し出を承諾した。1703年ラーコーツィ家の元農奴エセ・タマーシュに率いられた一団がポーランドのラヴォチュネでラーコーツィの軍団に加わった。ベルチェーニもフランスの援助金を携え、600人のポーランド人傭兵を引き連れて合流した。反乱軍は1703年9月下旬までにはドナウ川の東側と北側に至るハンガリー王国の大部分を支配下におき、ドゥナーントゥール(現在のハンガリー北西部)の征服に乗り出した。

 

スペイン継承戦争において当初苦境に立っていたオーストリア軍は、イングランド軍と共に1704年、ブレンハイムの戦いでフランス=バイエルン連合軍に勝利した。これによってオーストリアスペイン継承戦争で優勢に立った上、フランス=バイエルン連合軍とラーコーツィ軍の連携を阻むことにも成功、ラーコーツィは軍事的にも経済的にも厳しい状況に追い込まれた。フランスからの支援は滞るようになり、加えてこの時点で配下にあった軍勢に武器と食糧を提供するだけの資力がラーコーツィには無かった。それでもラーコーツィはしばらく軍事的優勢を保つことが出来たが、1706年以後は占領した地域から退き始めた。

 

1708年のトレンチーンの戦いにおいて、ラーコーツィは落馬し意識を失った。クルツ反乱軍は彼が死んだと思い、戦場から逃げ去った。この無様な敗退が彼の独立戦争の終焉の決定的な要因となった。反乱軍の大勢の指導者達が皇帝への忠誠を表明し、皇帝に慈悲を乞い、ラーコーツィの軍勢はムンカーチとサボルチュ郡周辺の地域まで撤退した。

 

ラーコーツィが1710年の冬にロシアに外交交渉に赴いていた間、代理でクルツ軍総司令官を務めていたサンドールは、帝国軍の総司令官パルフィとの間で和平交渉を結行い、サトマールの和約を成立させた。この和約はハンガリー貴族の権利を認めるものであり、ラーコーツィを特に厳しく扱う内容でもなかったが、ラーコーツィはハプスブルク宮廷を疑っており、恩赦に甘んじることなくポーランドへの亡命を選択して祖国ハンガリーを離れた。

 

ラーコツィはフランスに渡り、好意を持って迎えられたが、当時の国王ルイ14世はクルツを支援する具体的な手立てを講じることはなかった。やがて彼はオスマン帝国の招聘を受け、トルコに移住することを決めた。1717年、940人の従者を伴ってフランスを出国し、ガリポリに到着した。

 

ラーコーツィはオスマン国で名誉をもって迎えられたが、帝国内のキリスト教徒の軍団を率いて対ハプスブルク戦争を援護したいという願いは、トルコ政府からまともに取り合われることは無かった。晩年はロドストに定住し、1735年に没した 。