ラーコツィ独立戦争

18世紀ハンガリーのラーコツィ独立戦争についてのメモを淡々と更新するもの。

サンドール・カロイ・デ・ナギカロリー

ハンガリーの貴族、政治家。ラーコツィ独立戦争の指導者。

  
1687年のゼンタの戦いに以後、ハプスブルク帝国は現在のスロベニアとトランスバニアを含むハンガリーの大部分を回復したが、何人かの帝国軍の将校は回復した土地をまるで植民地のように扱った。北ハンガリー高等裁判所の男爵であったサンドールは、帝国の将校と繰り返し衝突しつつも、ハンガリー貴族とハプスブルク帝国の折衝に努めていた。

1703年、サンドールはエゼとアルバートによって指導された農民反乱を帝国軍とともに鎮圧した。彼はこの勝利についてウィーンで報告を行うとともに、より広範な動きを防ぐために税負担の軽減等を求めたが、帝国の司令官はサンドールの不在の間に彼の所領を占領し、彼と彼の家族の立ち退きを強要した。また、同時期に行われたラーコツィの独立勢力の拡大は、ウィーンにサンドールの勝利と忠誠を疑わることになった。サンドールはこれ以上の交渉の無理を悟り、ラーコツィとベルチェーニの勢力に加わった。

 

サンドールはラーコツィ軍の陸軍将校となり、1704年からはトランスダヌビアの運動の司令官となった。彼はこの地の支配をかけ、ハプスブルク将校ハイスターと一進一退を繰り返したが、1705年のバラトンチリキンの戦いの後、この地を永久に手放すことになった。

 

クルツ軍のトレンチーンでの決定的な敗北の後、サンドールは戦争継続の困難を悟る。ラーコツィ不在の間の司令官を代理するサンドールは、1710年のロマニーの戦いの後、皇帝代理である総司令官のパルフィと交渉を行い、サトマールの和約を成立させた。この和約により、ハプスブルク家は絶対主義を放棄し、ハンガリー及びトランスバニアの自治が認められることになった。

 

サンドールは1716−1718のハプスブルクートルコ戦争に参加し、ハンガリー軍の一部を指揮し、『最後のタタール人の侵攻』からヨーロッパを守り抜いた。