ラーコツィ独立戦争

18世紀ハンガリーのラーコツィ独立戦争についてのメモを淡々と更新するもの。

ベゼレディ・イムレ

ハンガリー貴族の御曹司。クルツ軍の将軍。

 

ガボールエステルハージの騎兵連隊長として、スペイン継承戦争でフランスと戦う。1704年、ミクロスシボリクの扇動でクルツ軍に加わると、ケセグ、ショプロン、下オーストリアの襲撃で活躍する。1705年の聖ゴッタルドではヴォイヴォディナのセルビア騎兵を徹底的に叩き潰し、翌年、准将に任命された。

 

ベゼレディは1706年頃から皇帝軍のパルフィ将軍と内密し、トレンチーンの戦いの以後には寝返りを計画していた。しかし、この試みは1708年にエステルハージにより暴露され、逮捕の後斬首された。逮捕の日、ラーコツィは彼を昇進させようとしていた。

アダム・バログ

ハンガリーの貴族。クルツ軍の将軍。

 

トランスダヌビアのカトリック貴族出身。1702年頃までハプスブルク軍と墺土戦争に参加する。ラーコツィ独立戦争勃発後もしばらくは皇帝に忠誠を誓っていたが、1705年頃にはクルツ軍に加わる。ギョルバールやエゲルバールの戦いでの勝利や、ウィーン国境まで2度迫った襲撃などが有名。1708年、帝国軍のセルビア騎兵隊を破り、准将に任命される。

 

1710年、セクサールドの戦いにて帝国軍に捕らえられ、皇帝は彼を「詐欺師」とし、軍事裁判で死刑とした。

アンタル・エステルハージ

ハンガリーの貴族。ハプスブルク軍のちクルツ軍の指導者。テケリ・イムレの甥に当たる。

 

1697年から1702年までハプスブルク軍の司令官として墺土戦争に参加。ラーコツィ独立戦争が勃発すると、シュリック将軍の下でクロアチア人の蜂起の鎮圧、フォルガッハの下でレバの戦いにてオクスカイを破るなど活躍。

 

1704年、フォルガッハがラーコツィ2世に与すると、自身もラーコツィに忠誠を誓う。以後は血筋からクルツ軍の将軍となり、チャクバールではハイスター将軍に敗れる。1706年にはボッティアンと共にフェルト、ショプロンの要塞から軍隊を引き離し、ウィーン郊外を荒廃させ、1708年にもウィーンに迫った。

 

サトマールの和約以後はラーコツィに同行しオスマン帝国に亡命する1717年、スルタン・アフメドはクリミア・タタール人モルドヴァ人を派遣してトランシルバニアを占領し、ラーコツィを再起させることを企図する。エステルハージは少数のクルツ軍を率いてこれに参加したが、タタール人の略奪によりトランシルバニアの住民はハプスブルク帝国を支持し、蜂起の扇動はむしろ失敗した。その後、ラーコツィを追いロドストに移住。

マイクス・クレメント

ハンガリーの作家。1707年にラーコツィに従軍した後、ポーランド、フランス、オスマン帝国までラーコツィに同行し、亡命者の日常を記した207通の「トルコの手紙」などの文学作品を残した。ラーコツィの死後も祖国への帰還は許されず、仲間の死を見送りながら1761年に71歳で没する。

サイモン・フォーガッハ

ハンガリーの貴族。ラーコツィ独立戦争の指導者。

 

1685年のより墺土戦争に参加し、バイエルンオーストリア軍で騎兵の司令官となる。1703年にズヴォレンの戦いではクルツ軍の鎮圧に向かうも退却。

 

1704年、クロアチア自治を無視し自身の家臣を逮捕されたことでハプスブルク家に反目。クルツ軍に合流する。コロナの戦いでハイスターを破る。コンツェ、プレジョフ、メドゲス、シャモスイヴァール、デヴァの城を占領するなど活躍した。

 

1706年から1710年は捕虜となり投獄されるも、ラーコツィの亡命後は後を追ってポーランド、トルコに移住した。

ヤーノシュ・ボティアン

ハンガリーの貴族及びラーコツィ独立戦争の指導者。

 

1664年からハプスブルク帝国軍の墺土戦争に従軍し、いくつかの英雄的行為を残した。1683年のエステルゴム奪還戦、1685年のブタ包囲戦でも活躍。1692年にベオグラードの戦いで片目を失い、『盲目のボティアン』と呼ばれる。

 

1703年、クルツ軍の鎮圧に派遣され、ズヴォレンにてフォルガッハの指揮下で戦う。オクスカイと一騎討ちを行い、双方が重症を負い、ボティアンは幽閉されるが、ベルチェーニと交渉を行い、ラーコツィに忠誠を誓う。ラーコツィはボティアンをトランスダヌビアの総司令官に任命した。

 

1704年よりハプスブルク軍に連勝し、1705年にはトランスダヌビアから帝国軍を駆逐。セントゴタールの戦いではハイスターを破った。1706年のエステルゴムの占領、1707年のトランスダヌビアの防衛戦でも勝利し、ボティアンの戦術的才能はオーストリアからすら称賛された。

 

1709年、髄膜炎により没する。

オクスカイ・ラースロー

クルツ兵士。

 

軽騎兵としてパルフィの連隊に属し、オイゲンの十字軍に参加。同志を殺害し逃亡、イスラム教に改宗し、1699年にはまた復隊しスペイン継承戦争に参加するが、今度はフランスに逃亡し、フランス王のボディガードになった。

 

1703年、ラーコツィの蜂起が起こると、オクスカイもこれに参加する。熟練した騎兵隊としてレバ、コルポナ、セルメックを征服し、オーストリアモラヴィアで略奪を働いたため、「火の王子」、「ラーコツィの稲妻」などと呼ばれ恐れられた。

 

1708年、トレンチーンの戦いの際、オクスカイは配下の部下に神聖ローマ皇帝への忠誠を誓わせ、平然とパルフィの軍と団結した。オクスカイの裏切りはクルツ軍に多いな混乱を齎らした。1710年、大司教ヤヴォルカに捕らえられ、裏切り者として斬首された。