アンタル・エステルハージ
ハンガリーの貴族。ハプスブルク軍のちクルツ軍の指導者。テケリ・イムレの甥に当たる。
1697年から1702年までハプスブルク軍の司令官として墺土戦争に参加。ラーコツィ独立戦争が勃発すると、シュリック将軍の下でクロアチア人の蜂起の鎮圧、フォルガッハの下でレバの戦いにてオクスカイを破るなど活躍。
1704年、フォルガッハがラーコツィ2世に与すると、自身もラーコツィに忠誠を誓う。以後は血筋からクルツ軍の将軍となり、チャクバールではハイスター将軍に敗れる。1706年にはボッティアンと共にフェルト、ショプロンの要塞から軍隊を引き離し、ウィーン郊外を荒廃させ、1708年にもウィーンに迫った。
サトマールの和約以後はラーコツィに同行しオスマン帝国に亡命する1717年、スルタン・アフメドはクリミア・タタール人とモルドヴァ人を派遣してトランシルバニアを占領し、ラーコツィを再起させることを企図する。エステルハージは少数のクルツ軍を率いてこれに参加したが、タタール人の略奪によりトランシルバニアの住民はハプスブルク帝国を支持し、蜂起の扇動はむしろ失敗した。その後、ラーコツィを追いロドストに移住。
ヤーノシュ・ボティアン
1664年からハプスブルク帝国軍の墺土戦争に従軍し、いくつかの英雄的行為を残した。1683年のエステルゴム奪還戦、1685年のブタ包囲戦でも活躍。1692年にベオグラードの戦いで片目を失い、『盲目のボティアン』と呼ばれる。
1703年、クルツ軍の鎮圧に派遣され、ズヴォレンにてフォルガッハの指揮下で戦う。オクスカイと一騎討ちを行い、双方が重症を負い、ボティアンは幽閉されるが、ベルチェーニと交渉を行い、ラーコツィに忠誠を誓う。ラーコツィはボティアンをトランスダヌビアの総司令官に任命した。
1704年よりハプスブルク軍に連勝し、1705年にはトランスダヌビアから帝国軍を駆逐。セントゴタールの戦いではハイスターを破った。1706年のエステルゴムの占領、1707年のトランスダヌビアの防衛戦でも勝利し、ボティアンの戦術的才能はオーストリアからすら称賛された。
1709年、髄膜炎により没する。
オクスカイ・ラースロー
クルツ兵士。
軽騎兵としてパルフィの連隊に属し、オイゲンの十字軍に参加。同志を殺害し逃亡、イスラム教に改宗し、1699年にはまた復隊しスペイン継承戦争に参加するが、今度はフランスに逃亡し、フランス王のボディガードになった。
1703年、ラーコツィの蜂起が起こると、オクスカイもこれに参加する。熟練した騎兵隊としてレバ、コルポナ、セルメックを征服し、オーストリアとモラヴィアで略奪を働いたため、「火の王子」、「ラーコツィの稲妻」などと呼ばれ恐れられた。
1708年、トレンチーンの戦いの際、オクスカイは配下の部下に神聖ローマ皇帝への忠誠を誓わせ、平然とパルフィの軍と団結した。オクスカイの裏切りはクルツ軍に多いな混乱を齎らした。1710年、大司教ヤヴォルカに捕らえられ、裏切り者として斬首された。