ラーコツィ独立戦争

18世紀ハンガリーのラーコツィ独立戦争についてのメモを淡々と更新するもの。

リトル・アルバート

ハンガリーの兵士。ラーコツィ独立戦争の指導者。

 

アルバートはテケリの蜂起にも参加し、彼の後を追ってトルコにも行った。1692年にサンドールの軍に入隊しクルツと戦うも、1694年には退役しクルツ軍に加わる。1697年にはヘキルジャの蜂起を組織するもサンドールにより事前に逮捕されていたためこれに加われず、再び脱出した後もクルツ運動を続けた。

 

タマス・エッゼと共にラーコツィの独立戦争に合流したアルバートは、1703年に1000人隊の隊長に任命される。しかし、1704年に地主の権威を打倒しようとする農民の派閥とラーコツィとの約束のためハンガリー貴族に協力しようとする農民の間で論争が起き、前者の側であったアルバートはサトマール城の包囲中に貴族により処刑された。

タマス・エッゼ

ラーコツィ独立戦争の指導者。

 

1696年頃、タルパの農奴出身のエッゼは貧しい人々のための秘密組織を参加した。彼等は蜂起の前にサンドールにより逮捕されたが、ヘギャルジャ蜂起には参加出来なず、1698年に釈放された。1702年、エッゼはキス・アルバートと共にパールの歩兵連隊に入隊し、スペイン継承戦争勃発後の1703年に集団で逃亡、ポーランドでラーコツィとベルチェーニに合流した。

 

エッゼの軍はほとんど訓練されていない農民の軍であり、装備も不十分であった。ドルハまで進軍した彼等の軍はサンドールと帝国軍により鎮圧されたが、敗北後も機能を停止せず、ラーコツィがポーランドを超えるとこれに再び戦線に戻った。エッゼは1703年から1708年の多くの戦闘に参加し、旅団長に任命された。

 

エッゼは1708年に軍内のカトリックプロテスタントの諍いを仲裁するのに失敗し、流れ弾で死亡したか、1710年にハンガリー人とザクセン人の争いの中で死亡したとされる。

サンドール・カロイ・デ・ナギカロリー

ハンガリーの貴族、政治家。ラーコツィ独立戦争の指導者。

  
1687年のゼンタの戦いに以後、ハプスブルク帝国は現在のスロベニアとトランスバニアを含むハンガリーの大部分を回復したが、何人かの帝国軍の将校は回復した土地をまるで植民地のように扱った。北ハンガリー高等裁判所の男爵であったサンドールは、帝国の将校と繰り返し衝突しつつも、ハンガリー貴族とハプスブルク帝国の折衝に努めていた。

1703年、サンドールはエゼとアルバートによって指導された農民反乱を帝国軍とともに鎮圧した。彼はこの勝利についてウィーンで報告を行うとともに、より広範な動きを防ぐために税負担の軽減等を求めたが、帝国の司令官はサンドールの不在の間に彼の所領を占領し、彼と彼の家族の立ち退きを強要した。また、同時期に行われたラーコツィの独立勢力の拡大は、ウィーンにサンドールの勝利と忠誠を疑わることになった。サンドールはこれ以上の交渉の無理を悟り、ラーコツィとベルチェーニの勢力に加わった。

 

サンドールはラーコツィ軍の陸軍将校となり、1704年からはトランスダヌビアの運動の司令官となった。彼はこの地の支配をかけ、ハプスブルク将校ハイスターと一進一退を繰り返したが、1705年のバラトンチリキンの戦いの後、この地を永久に手放すことになった。

 

クルツ軍のトレンチーンでの決定的な敗北の後、サンドールは戦争継続の困難を悟る。ラーコツィ不在の間の司令官を代理するサンドールは、1710年のロマニーの戦いの後、皇帝代理である総司令官のパルフィと交渉を行い、サトマールの和約を成立させた。この和約により、ハプスブルク家は絶対主義を放棄し、ハンガリー及びトランスバニアの自治が認められることになった。

 

サンドールは1716−1718のハプスブルクートルコ戦争に参加し、ハンガリー軍の一部を指揮し、『最後のタタール人の侵攻』からヨーロッパを守り抜いた。

ミクローシュ・ベルチェーニ

ハンガリー貴族でありラーコツィ革命の指導者。

 

ベルチェーニはトルナバ大学で学び、パル・エステルハジーの下で軍隊のキャリアを開始する。1685年、ヴァグッチェリエの司令官となり、1686年にはブダの包囲で活躍、大佐の階級を授与される。

 

1690年、貴族秩序の不満の激化の間に、彼は徐々に皇帝レオポルド皇帝絶対主義と抑圧的な政治に不満を抱き始める。

 

1696年、ベルチェーニはラーコツィと知り合いになり、自身の政治的ビジョンを若きラーコツィと共有することに成功する。彼等はフランスの助けを借りてハブスブレスのハンガリーの支配を傾けるための陰謀を組織し始めるが、これが露見し、1701年にラーコツィが帝国軍に囚われると、ベルチェーニはポーランドに逃亡、ラーコツィの救出と蜂起の準備を始めた。

 

1703年の春、ベルチェーニはフランスの支援金で雇ったポーランド傭兵軍を率い、ウィーンから脱出したラーコツィの独立運動に合流した。ベルチェーニはクルツ軍の司令官となり、ティザベックの戦いやティザジュラクの戦いを指揮し、勝利した。

 

1708年のトレンチーンでの戦いでクルツ軍は決定的な敗北を喫した。ベルチェーニはクルツ軍の散乱騎兵を収集し、いくつかの戦闘を継続したが、戦況を覆すことは出来なかった。1710年、ベルチェーニはロシアに援助を引き出すためポーランドまで向かうが、サンドールによりクルツ軍とハプスブルク家との間で和平が結ばれていた。この和約において、ベルチェーニの恩赦は記されておらず、彼はポーランドで亡命生活を送ることとなる

 

1716年、ベルチェーニは既にラーコツィやその仲間を受け入れていたオスマン帝国に招聘され、オスマン帝国に亡命した。1717年には『最後のタタール人の侵攻』に合わせたハンガリーの侵攻においてトルコの騎馬隊を率いたが、これは失敗に終わった。

 

1725年、ロドストでの亡命生活中に死亡した。

 

ラーコーツィ・フェレンツ2世

ラーコーツィ・フェレンツ2世1676年  - 1735年)ハンガリーの大貴族で、反ハプスブルク独立戦争の指導者。 

 

1676年、トランシルヴァニア公の称号を持つラーコーツィ・フェレンツ1世と、クロアチア太守ペータル・ズリンスキの娘で、勇将ニコラ・ズリンスキの姪にあたるズリーニ・イロナ(イェレナ)との間に3番目の子供として生まれた。ラーコーツィ家は父のみならず、高祖父ラーコーツィ・ジグモンドを始め曾祖父のラーコーツィ・ジェルジ1世、祖父のラーコーツィ・ジェルジ2世トランシルヴァニア公に選ばれた名門の家柄だった。しかし、祖父は失政からオスマン帝国の介入を招き戦死、父は公位を継げなかった上、1670年ハプスブルク家に対するヴェッシェレーニ陰謀に関与したため立場は良くなかった。

 

1682年に母はハンガリーの大貴族テケリ・イムレと再婚した。テケリはフランス、オスマン帝国の支援の下、ハプスブルク帝国に対する大規模な反乱の指導者となったが、1683年第二次ウィーン包囲オスマン帝国ハプスブルク軍に敗退すると、帝国と共に劣勢になり没落、亡命した。

 

1686年、皇帝軍の司令官の1人アントニオ・カラファ将軍はムンカーチ城を包囲した。イロナは3年間城を守ったが、1689年に降伏した。ラーコーツィと姉ユリアナは再び皇帝レオポルト1世の後見下におかれ、母親と共にウィーンに連れてこられた。一家は財産を取り戻すことが出来たが、皇帝の許可なしにはウィーンを離れることは禁じられた。

 

1699年、カルロヴィッツ条約が結ばれると同時に、テケリと母は亡命を余儀なくされた。ラーコーツィは皇帝の監督下におかれウィーンに残った。広範な反ハプスブルク感情を頼みとして、テケリの率いていた農民軍の残党はトカイ=ヘジャリャ地方(現在のハンガリー北東部、ラーコーツィ家の所領の一部)で反乱を起こした。反乱軍はトカイシャーロシュパタクシャートラリャウージヘイのラーコーツィの持ち城を占拠し、ラーコーツィに指導者となってくれるよう頼んだが、ラーコーツィは小規模な農民一揆と大差ない反乱の首謀者にされるのを嫌がり、ウィーンに戻って反乱との関わり否定し、身の潔白を証明した。

 

やがてラーコーツィは自分の所領の隣合うウングヴァール(現在のウクライナウージュホロド)を所有するミクローシュ・ベルチェーニ伯爵と友人になった。ベルチェーニはハンガリー王国で3番目に裕福な貴族で、非常に高い教養を積んだ人物であった。ベルチェーニはハプスブルク絶対主義に支配されつつあるハンガリーを憂えており、上級貴族を中心としたハンガリーの政治主権の回復を望んでいた。ラーコーツィはベルチェーニの考えに感化され、ハンガリー独立のために戦ってきた一族の伝統を受け継ぐべきだと思うようになった。

 

フランスはラーコーツィと協定を結び、彼がハンガリー独立の大義のために戦いを始める暁には支援を行うと約束した。しかし、オーストリア密偵は両者の交わした通信文を押さえると皇帝に注進、この協定のためラーコーツィは1700年4月18日に逮捕され、ヴィーナー・ノイシュタットの要塞に収監された。身重の妻アマーリエと要塞の司令官の手引きでラーコーツィは脱獄、ポーランドへの逃亡に成功した。この地でラーコーツィはベルチェーニと再会し、両者はフランス宮廷との協定を再発効させた。

スペイン継承戦争が勃発し、ハンガリー王国内に駐留していたオーストリア軍の大部分が同国を離れると、かつてテケリが率いていたクルツ反乱軍はムンカーチで新たな蜂起を再開し、ラーコーツィはその指導者に推された。ラーコーツィはこの独立戦争に身を投じることを決意し、申し出を承諾した。1703年ラーコーツィ家の元農奴エセ・タマーシュに率いられた一団がポーランドのラヴォチュネでラーコーツィの軍団に加わった。ベルチェーニもフランスの援助金を携え、600人のポーランド人傭兵を引き連れて合流した。反乱軍は1703年9月下旬までにはドナウ川の東側と北側に至るハンガリー王国の大部分を支配下におき、ドゥナーントゥール(現在のハンガリー北西部)の征服に乗り出した。

 

スペイン継承戦争において当初苦境に立っていたオーストリア軍は、イングランド軍と共に1704年、ブレンハイムの戦いでフランス=バイエルン連合軍に勝利した。これによってオーストリアスペイン継承戦争で優勢に立った上、フランス=バイエルン連合軍とラーコーツィ軍の連携を阻むことにも成功、ラーコーツィは軍事的にも経済的にも厳しい状況に追い込まれた。フランスからの支援は滞るようになり、加えてこの時点で配下にあった軍勢に武器と食糧を提供するだけの資力がラーコーツィには無かった。それでもラーコーツィはしばらく軍事的優勢を保つことが出来たが、1706年以後は占領した地域から退き始めた。

 

1708年のトレンチーンの戦いにおいて、ラーコーツィは落馬し意識を失った。クルツ反乱軍は彼が死んだと思い、戦場から逃げ去った。この無様な敗退が彼の独立戦争の終焉の決定的な要因となった。反乱軍の大勢の指導者達が皇帝への忠誠を表明し、皇帝に慈悲を乞い、ラーコーツィの軍勢はムンカーチとサボルチュ郡周辺の地域まで撤退した。

 

ラーコーツィが1710年の冬にロシアに外交交渉に赴いていた間、代理でクルツ軍総司令官を務めていたサンドールは、帝国軍の総司令官パルフィとの間で和平交渉を結行い、サトマールの和約を成立させた。この和約はハンガリー貴族の権利を認めるものであり、ラーコーツィを特に厳しく扱う内容でもなかったが、ラーコーツィはハプスブルク宮廷を疑っており、恩赦に甘んじることなくポーランドへの亡命を選択して祖国ハンガリーを離れた。

 

ラーコツィはフランスに渡り、好意を持って迎えられたが、当時の国王ルイ14世はクルツを支援する具体的な手立てを講じることはなかった。やがて彼はオスマン帝国の招聘を受け、トルコに移住することを決めた。1717年、940人の従者を伴ってフランスを出国し、ガリポリに到着した。

 

ラーコーツィはオスマン国で名誉をもって迎えられたが、帝国内のキリスト教徒の軍団を率いて対ハプスブルク戦争を援護したいという願いは、トルコ政府からまともに取り合われることは無かった。晩年はロドストに定住し、1735年に没した 。