ラーコツィ独立戦争

18世紀ハンガリーのラーコツィ独立戦争についてのメモを淡々と更新するもの。

ミクローシュ・ベルチェーニ

ハンガリー貴族でありラーコツィ革命の指導者。

 

ベルチェーニはトルナバ大学で学び、パル・エステルハジーの下で軍隊のキャリアを開始する。1685年、ヴァグッチェリエの司令官となり、1686年にはブダの包囲で活躍、大佐の階級を授与される。

 

1690年、貴族秩序の不満の激化の間に、彼は徐々に皇帝レオポルド皇帝絶対主義と抑圧的な政治に不満を抱き始める。

 

1696年、ベルチェーニはラーコツィと知り合いになり、自身の政治的ビジョンを若きラーコツィと共有することに成功する。彼等はフランスの助けを借りてハブスブレスのハンガリーの支配を傾けるための陰謀を組織し始めるが、これが露見し、1701年にラーコツィが帝国軍に囚われると、ベルチェーニはポーランドに逃亡、ラーコツィの救出と蜂起の準備を始めた。

 

1703年の春、ベルチェーニはフランスの支援金で雇ったポーランド傭兵軍を率い、ウィーンから脱出したラーコツィの独立運動に合流した。ベルチェーニはクルツ軍の司令官となり、ティザベックの戦いやティザジュラクの戦いを指揮し、勝利した。

 

1708年のトレンチーンでの戦いでクルツ軍は決定的な敗北を喫した。ベルチェーニはクルツ軍の散乱騎兵を収集し、いくつかの戦闘を継続したが、戦況を覆すことは出来なかった。1710年、ベルチェーニはロシアに援助を引き出すためポーランドまで向かうが、サンドールによりクルツ軍とハプスブルク家との間で和平が結ばれていた。この和約において、ベルチェーニの恩赦は記されておらず、彼はポーランドで亡命生活を送ることとなる

 

1716年、ベルチェーニは既にラーコツィやその仲間を受け入れていたオスマン帝国に招聘され、オスマン帝国に亡命した。1717年には『最後のタタール人の侵攻』に合わせたハンガリーの侵攻においてトルコの騎馬隊を率いたが、これは失敗に終わった。

 

1725年、ロドストでの亡命生活中に死亡した。